2.3 地図とコンパス

時計を見ると午後2時20分、そろそろ授業が始まる。そそくさと図書館を出て、キャンパスの一番奥にある教室に向かった。

まだ開始時間前だというのに、もうヨシムネとチャビーは座っていて、なんと渋さんまでが準備万端で待っていた。「すみません遅くなりました」と小声で言って、急いで席に着席した。

「さてさて、揃ったところで講義を始めるとするかのう。みんな事前課題には取り組んできたかぇ?」

「やってきました」

「なかなか難しかったじゃろう、生きていると自分が死ぬことを想像する場面なんてそうそうないからな、フォッフォッフォ。わしがなぜ、残り寿命1年という条件を付けたか、分かるかな、チャビー

猫は、期限から逆算して、行動を考えると聞いたことがありますね〜。だから、夏休みが2か月あっても、最後の1週間にならないと宿題には手がつけられないって」

「その通りじゃ。…………いいかな、生きるということと死ぬということは表裏一体じゃ。例えば、われわれは意識もせずに息をしとるよな。普段は空気の存在を感じることはない。山の上とか、水の中とか、空気のない状況に行ってみて、初めて空気の大切さに気付く。生きるというのも同じじゃ。死を間近に感じることによって、初めてわれわれは、生きることについて真剣に考えられるようになる。

死を目前にすることで、自分のプライド、失敗を恐れる心、他の猫からの期待など、そういった雑音をすべて投げ捨てて、自分が本当に重要だと思えるものだけを、見つめることができるようになるのじゃ。今日のテーマは『自己理解力』だ。このテーマは深いぞ。これから少しづつ教えていく事柄の、すべての基礎となる大事な力じゃ。まあ、ここが弱かったら、何をやってもうまくはいかんじゃろうな。ネコ美、お前さんは自分自身を理解していると、胸を張って言えるか?」

「課題をやる前はそう思ってましたが、実際に考えて見ると、実は全然わかっていないことに気づきました」

「ふむ、そうじゃな。自分を知るというのは、昔からある哲学的なテーマじゃ。世界遺産にもなっている有名な神殿の入り口には、こんな言葉が刻み込まれておる。

『汝自身を知れ』。これは、昔の哲学者の言葉で、自分が本当に求めるものを理解しない限り、何を得ても幸せにはなれないという意味だと解釈されておる。他にも、こんな言葉もあるぞ。『敵を知り己を知れば百戦して危うからず』。ヨシムネ、知っとるか?」

「知ってます。なにか問題を解決するときも、その内容をよく吟味して、自分の力量を認識したうえで対処すれば、うまくいくということですよね」

「その通りじゃ。もし、自分のことをよく知らずに生きているとしたら、それはまるで、チケットを持たずに飛行機に乗っているようなものだ。飛行機に乗っていて、それがどこに向かっとるのか分からなかったら、そんな怖いことはないぞ。だから自分を知るというのは、生きる上で最も大切で、生き方の基盤となるのじゃ」

渋さんは、地図とコンパスを持った猫のイラストをスライドに映し出した。

「もし、自分自身を知りたかったら、自分のなりたい姿、現在の自己評価、自分の好き嫌い、この3つを自己分析シートにまとめるのが一番シンプルで簡単な方法じゃ。お前さんがたに事前課題でやってもらったのもそれじゃな。ニャン生を旅に例えてみるなら、自分のなりたい姿は旅の目的地、自己評価は現在地を表す。そして、好き嫌いは、さしづめコンパスというところじゃな。これらは、生きていると徐々に変わってくる。だから、定期的に見直しをして、地道に更新していくことが大切じゃ。こんなもん、紙1枚程度のもんじゃが、これを繰り返し、繰り返し見返して更新していくことで、自分にとって貴重な宝の地図になってくるのじゃ」

渋さんは続ける。

「自分自身というのは、分かってるようで分かっていない。自分を知るというのは難しいもんじゃ。例えばこんな想像をしてみるといい。お前さんがたは野生の猫で、ジャングルの奥地に住んでいる。四つ足で歩いていて、言葉を話すこともできず、もちろんスマートフォンだって持っていない。自分がどんな姿をしているのかを知りたいと思っているが、いかんせん、自分の姿は自分では見ることができない。手や足などは見ることができるが、どんな顔をしているのか、頭や背中はどんな柄模様なのか、どんな目の色をしているのか、全く分からない。それでも自分の姿を知りたいとすれば、どうしたらいいと思う、チャビー」

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「え〜と、水たまりに映る姿を見るとかですかね〜」

「そうじゃな。周囲に映った自分の姿を見るのは一つの方法じゃ。完全な姿を見ることはできないかもしれないが、背に腹は代えられんな。同じように、他の猫の瞳に映った自分を見るという手もあるぞ。自分自身を知るのには、自分の力だけでなく周囲からフィードバックを受けるのも効果的だから覚えておくといい。ところで、今回の事前課題をやるのに、誰かと一緒に検討したか?」

ヨシムネが首を横に振った。

「まあ、みんなそうじゃな。では、わしの講義が終わった後、おまえさんがた同士でディスカッションをせえ。事前課題で考えたこと、講義を聞いて気づいたことを話して、それについてお互いにフィードバックをするのじゃ。フィードバックとは言っても、特に正解とかはないからな。ただ単に、思ったことを一言伝えればよい。他の猫からの感想を聞くと、良い気づきが生まれることもあるのでな。ただしな…………周囲の猫の意見ばかり聞いていると、それが自分の価値観なのか、他の猫の価値観なのか、よう分からなくなってしまうことがある。これには、気を付けなければならんぞ」

そして、渋さんは懐かしそうに語り出した。

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わしの小学校の同級生に竹内という猫がおってな…………竹内はネズミを捕まえるのが得意でのう。小学校の授業でも、もちろん一番だったし、地域の競技ハンティングの大会でも片っ端から優勝していた。竹内の家に遊びに行くとな、賞状やら、トロフィーやらが所狭しと並べられていたもんじゃ。小学校を卒業した後も、竹内は競技ハンティングの道に進んでな、企業に所属しながら実業団で競技をしておった。現役を引退してからも、コーチとして後進の指導にあたっていたと聞いておる」

「その竹内に、数年前に会った時のことじゃ。小学校の同窓会で久しぶりに再会し、わしは何の気なく『まだネズミ捕りは続けておるんか』と尋ねた。すると、思いもよらない答えが返ってきたんじゃ」

渋ちゃん…………実は俺、何年も前にネズミ捕りを辞めたんだ。何がきっかけなのか分からないんだけど、突然気づいたんだよ。俺、あんまりネズミ捕り好きじゃないのかもしれないって。あれだけやってて、いまさら好きじゃないって何だよ!て思うだろ? その時は俺もそう思ったんだけどさ……。小学校の授業で、ネズミ捕りやったのを覚えているかい? 俺は、他の猫よりうまく捕れたから、先生にもすごく褒められた。大会で優勝すると、本当に嬉しくて自分が誇らしかった。その時の自分は、ネズミ捕りのことを好きだと思ってたけど……実を言うと、毎回ネズミを捕る時にね、すごく心が痛んでたんだ。自分がこのネズミを殺さなかったら、このネズミはどんな生き方をしたんだろうかと……そうやっていろいろ考えるうちに、俺は本当はネズミ捕りが好きじゃなかったのかもしれない、周りの猫の期待に応えるためにネズミ捕りをやっていただけなのかもって思ったんだ。そう考えたら、なぜだか体が動かなくなって、もうネズミを追いかけられなくなったのさ。だから家に飾ってあった、賞状やら、トロフィーやら、ネズミのはく製を、全部庭に埋めて、ネズミのお墓を作ったんだ」

「それで今はね、絵を描いてるんだ。昔は絵を描くのが嫌いだったんだけど、不思議だろ? なぜ絵を描くのが嫌いだったかというと、小さい頃に、竹内は絵を描くのが下手だなと友達に言われてね、それがすごく嫌な思い出で、それ以来、出来るだけ絵を描かないで過ごしてきたのさ。でもね、この年になってね、誰に見せるわけでもなく、自分の想像したイメージを描いてみる、それがすごく楽しいことだってことが分かってきたんだ。だから最近は、毎日毎日、絵を描いて暮らしてるんだ。自分が好きだと思っていたネズミ捕りが、実はあんまり好きじゃなくて、逆に嫌いだと思っていた絵を描くことが、この年になって楽しくなってきた。皮肉なもんだろ、なあ渋ちゃん」

渋さんは窓の外を眺めながら話し続ける。

「その話を聞いて、わしはなんだかホッとしたわい。時間はかかったが、竹内は自分自身で気づくことができたのじゃ。いいか、さっきも言ったが、生きるというのは旅をするようなものじゃ。自分自身を知るという意味で、他の猫から意見を聞くのはよい。しかし、旅の終わりが近づいた頃には、周りには自分しかおらんことに気付くだろう。どんな旅をしたとしても、最終的にその結果は自分が受け止めることになるのじゃ。旅の終着点に着いた時に、自分の使っていた地図とコンパスが、実は自分のものでなく、他の猫のものだったとしたら、そんな不幸なことはないからな……。だから、良く生きるためには、まず最初に自分自身を知るというのが一番大切なことなんじゃ。よいかな?」

そう言ってから、渋さんはホワイトボードに書き出した。

「では、今日の自己理解力の講義をまとめるぞ」

【自己理解力】

  1. 自分自身を知ることが、生きることに関するすべての基盤となる
  2. なりたい姿、自己評価、好き嫌いを自己分析シートにまとめるのが簡単な方法
  3. 自分自身を客観的に見るのは難しいので、周囲の力を借りることも大事
  4. 旅に使っている地図とコンパスが本当に自分のものなのか、注意しておくこと

「今日の講義はこれでおしまいじゃ。わしは帰るが、先ほど話したように、お前さんがた3匹は、ここに残ってディスカッションせえ。レポートの提出はないが、ディスカッションの結果で気付いたことがあれば、課題を更新しておいてくれ、また使うからな。終わったら、電気を消してから帰ってな。ほいじゃ、サイナラ」

前回同様、質問を受け付ける様子はさらさらなく、渋さんはあっという間に教室を立ち去った。