「ネコ美、今日はぼーっとしてることが多かったけど大丈夫?」
ヨシムネがワタシに声を掛けてくれた。正直なことを言うと今日の講義の内容は、いまいち自分の事として聞くことができなかった。だって、キャッツアイに就職するというワタシのライフイベント表は、すでに崩壊しているから、計画も何もあったもんじゃないだもの。
ワタシは、最近起こった出来事をヨシムネとチャビーに打ち明け始めた。役所に行ったけど、ケビンについての情報は得られなかったこと。雨に打たれて転んだこと。キャッツアイは事業を縮小し、ケビンも部門ごとリストラされたこと。自己分析シートを失くしたこと……。
「なんだかもう、いろんな事が嫌になっちゃってさ。体に力が入らなくなっちゃってるの」
「そうか〜、大変だったね〜。運気が変わると良いのにね〜」
「でも、僕、ネコ美の自己分析シート持ってるよ」
「ええ!? 本当?」
「うん、想像力の講義の後、ディスカッションをする時に、それぞれコピーを配ったでしょ? 僕、資料は全部スキャンしてデジタル化してるから…………ほら」
ヨシムネがミャオフォンの画面をこちらに向け、ワタシの分析シートを見せてくれた。
「これ、メールで送信しておくね」
「ありがとう! 良かった~! …………ワタシ、なんか自分だけで問題を抱え込んでしまっていたのかもしれない。もっともっと、いろんな猫に相談したりして、自分から行動を起こしていったほうがいいのかも」
「そうだね〜、7つの猫缶の第一の習慣に『主体的に行動する』ってあったもんねぇ」
「あの、事前課題の期限変更ひどくなかった?」
「僕は、自分の計画が崩れてしまって、慌てふためいたよ。パニックになりながら残りを読んだ」
「ワタシはちゃんと読むのは諦めて、残りはテキトーにしか読んでない」
「実を言うと、ボクはね〜、最初からちゃんと読んでないんだ。インターネットの解説サイトをいくつかコピペして、感想文を書いちゃった」
「チャビー、良いことを教えてあげよう。最近の大学は、生徒がコピーアンドペーストでレポートを書いていないか調べるために、専用のソフトを使っているよ。そういうことをすると、すぐに見つかるようになってる」
チャビーは青くなった。
「まあ、大丈夫だよ、あの渋さんが僕たちの感想文をちゃんと読むわけがない。そう思うだろ?」
ヨシムネの確信をもった物言いに、ワタシもチャビーも笑ってしまった。
*
ヨシムネ、チャビーと話をして、なんだか元気が出てきた。自分に出来ることに集中して、主体的に行動する。自分に変えられないことは諦めて受け入れる。単純なことだけど、それしかない。ずっとさまよっていたが、自然とそう思えるようになり、吹っ切れた気分になってきた。
講義が終わってからの帰り道、ワタシはケビンの家を訪ねることにした。サラからケビンの住所は聞いていたので、その気になれば訪問することはできたのだけど、ちょっと不安で足が遠のいていた。でも今日なら行けそう、そう思ってワタシはケビンの家に向かった。住所と建物名からすると、ケビンは繁華街の近くのアパートに住んでいるらしい。時間は夕方近く、日も落ちて気温も下がってきていたが、そんなことは気にせず、どんどん足を進めた。
アパートが近づいてくると、それまでの勢いは失せ、だんだんと心細くなってきた。想像していたよりも大きく、そして古い建物を目の当たりして、怖気付いてきた。やっぱり帰ろうかなとひるんだが、それでも心を奮い起こして階段を上がり、三階の部屋の前まで進んだ。
ドアの前に立ち、深呼吸をした後、お腹に力を入れて、ブザーを押した。…………30秒ほど待つが応答はない。
トントン、とドアをノックしてみるが、それでも反応はない。
出掛けてるのかな?…………しょうがない、帰るか。
ほっとした気持ちと、残念な気持ちが同時に心を覆ったが、何気なくドアノブを回してみると
カチャ………… なんと、ドアが開いている!
心臓がバクバク鳴っている。勝手に入るのはまずいけど、中にケビンがいるかもしれない。どうしよう、どーしたらいい!?
本当は、一刻も早くその場から立ち去りたかったが、頑張れと自分に言い聞かせ、なんとかその場に踏み止まった。自分の心を奮い起こし、ゆっくりとケビンに声を掛けながら部屋に足を踏み入れた。
「ケビンさーん。ネコ美ですー。いないんですかー? 入りますよ~」
部屋から返事はない。部屋の中は換気されていないようで、空気も悪く、ほこりっぽかった。ゆっくりと廊下を進むと、床がきしむ音がして不気味に感じる。奥の部屋の中からなにやら話し声が聞こえてくる気がしたが、なんと言ってるのか聞き取れない。そして、奥の部屋のドアをゆっくり開けると…………。リビングの床は、洋服、食べ物のかす、ごみなどが散乱していた。
ケビンの姿は見えず、テレビが付けっぱなしになっているようだった。ソファの前のガラステーブルには、飲みかけのウィスキーのボトルと、マタタビの実が散乱していた。テレビを消そうと奥に向かった瞬間、ワタシは心臓が凍りつきそうになった。
ソファとテーブルの間に、ケビンが倒れていたのだ!
「ケビンさん! 大丈夫ですか! ケビンさん! しっかりして下さい!」
倒れているケビンに駆け寄って息を確かめる。よかった! 生きてる! どうやら酩酊して寝込んでいるようだった。
「ケビンさん! 起きてください! こんなところで寝てたら風邪ひきますよ!」
ケビンの体を何度も揺り動かす。ケビンはいびきを掻いて寝ていたが、そのうちに、うーんと唸って目を覚ました。
「…………誰だ……」
「ワタシです、ネコ美です!」
「…………なぜ、こんなところにいる……」
「ケビンさんが、心配で来たんですよ!」
ワタシはコップに水を汲み、ケビンに手渡した。ケビンは起き上がり、ソファに深く座り込んで水を一気飲みした。ケビンはしばらくの間、ばつが悪そうな顔で黙って座っていたが、やがて口を開き、一言だけ言った。
「…………帰れ……」
ぶっきらぼうにそういわれて、ワタシは一瞬ひるんだが、その言葉を無視するかのようにワタシは語りかけた。
「ケビンさん、サラさんからキャッツアイのこと聞きました。大変だったんですね、ワタシは、インターンで働いていたのに、まったく知らなかった…………」
「……だから何だ、何しに来たんだ? ……いいから帰れ…………お前に用はない」
「嫌です、帰りません。ワタシはケビンさんに、元気になってもらいたくて、ここに来ました」
「ほっといてくれ……もう終わったことだ。……だいぶ働き詰めたから、これからはもっと猫らしく生きようと思ってるところさ。幸い配給があるから食うには困ってない。寝たい時に寝て、遊びたい時に遊び、自由気ままにその日その日を暮らす。猫のあるべき姿ってところだな……」
「ワタシにできることはありませんか? ケビンさんの役に立ちたいんです」
「役に立ちたい?…………じゃあ悪いけど、もう1本ウィスキーを買ってきてくれよ…………」
ケビンは自嘲的に笑いながら言った。
「ケビンさん、真面目に聞いてください! ケビンさん、講義で言ってましたよね。自分が想像した未来よりも、素晴らしい運命が待っているなんてことは絶対にない! 自分が想像したことが実現するかどうかなんて分からないけど、自分が想像できる未来がマックスなんだって! こんなことしてたら、ケビンさんを待ち受けているのは、アルコール依存症の未来ですよ!」
ワタシは、震えながらウィスキーのボトルを取り上げて、キッチンにウィスキーを流し始めた。
「おい! お前! 何をする!」
ケビンは怒鳴りながらワタシを押しのけ、ボトルをひったくった。押された勢いで、ワタシはキッチンの床に投げ出されてしまった。その瞬間ケビンは、しまったという表情を浮かべたが、すぐに卑屈な表情に戻り、ワタシに言い放った。
「1歳ぐらいの年端もいかない、お前のような仔猫に俺の何が分かる! 自分のすべてをかけて築いたものを失ったんだぞ! すぐそこまで成功が迫っていたのに…………突然、手中から消えてしまったんだ……。お前の知っている情熱家のケビンは死んだんだよ…………いまお前の目の前にいるのは、ただの負け犬さ!」
そうしてケビンはソファに座りなおし、自嘲的にボソッと言った。
「負け犬じゃなくて、負け猫だな…………」
ワタシは涙が止まらなかった。床に投げ出されて体が痛かったせいか、ケビンに怒鳴られたせいか、頭の中がぐちゃぐちゃで、もう分からなかったが、とにかく涙があふれ出てきた。
「ワタシ、キャッツアイで働けたらいいな……と思っていて……それがかなわなくなったのも残念でしたけど…………でもそれ以上に、ケビンさんがそんなこと言うなんて…………ショックでした…………。でも、ワタシは諦めませんから…………。自分で変えられないことは受け入れるしかないけど…………自分でできることを見つけて…………自分から行動起こしますから…………。ケビンさんにも立ち直ってほしいです…………」
涙ながらに思いを伝えようとしたが、最後の方は声になっていなかったかもしれない。ワタシは立ち上がり、テーブルの上に転がっているマタタビの実を全部ゴミ箱に捨てて、部屋を立ち去った。
アパートを出ると、辺りはすっかり日が落ちていていた。通りには家々が並んでいて、どの家も電飾を使ってハロウィンの飾り付けをしていた。照明はきらびやかに輝いていたが、ワタシの目には次から次へと涙があふれてしまって、周りがよく見えなかった。