9.3 成長、チャレンジ、節制

なんだか今日は渋さんが大きく見える。

「まあそうは言っても、猫の幸せを語る上でいくつかの共通点はある。これからは、幸せを感じるためのキーワードについて話していくとしよう。1つ目のキーワードは『成長を愛でる』ことじゃな。猫には生まれながらに、成長するものを見ると幸せを感じるよう、プログラミングされておる。多くの猫が、仔猫の時代を楽しかったと考えるが、それは仔猫の時は、自然に背は伸びるし、体重は増えるし、自分が出来ることも飛躍的に増えていくからじゃ。自分の成長が目に見えて分かるから、幸せを感じる機会も多い。自分自身の成長だけでなく、動植物を愛でても良いし、自分の子供の成長に関わるのでも構わんぞ。成長して行くのを見るのは楽しいし、その成長に自分が貢献できるともっと楽しくなる

「会社も都市も、ぐんぐん成長している真っ盛りにいると、楽しいと感じられるな。逆に、年老いていくと、成長ではなく衰退を感じるようになってくる。どんなに頑張っても、膝や腰が痛くなるし、知り合いの訃報や葬式も多くなってくる。老いるとともに制約は厳しくなってくるわな。だから、年を取った時にこそ、自分がどういったところで成長を感じられるか、しっかり考えておく必要があるぞ」

2つ目のキーワードは『チャレンジをする心』じゃな。強運力の講義でケビンが話していたリスクテイキングにも通じるところがある。先行きが不透明な状況で、リスクをコントロールしながらチャレンジするのは、幸せを感じる要素の1つでもある。老猫に対するアンケート調査で、『もっとも後悔していることは何ですか?』という質問に対し、実に70%もの猫が『チャレンジしなかったこと』と答えておる。やって後悔するより、やらなかった後悔のほうが遥かに大きいのじゃ。もちろん、行き過ぎたリスクテイキングは、射幸心と呼ばれる抑制すべきものじゃが、チャレンジをする心というのは、幸せにとって大きな要素じゃな」

「そして、節制というのも大事なキーワードじゃな。幸せを感じるのに節制が必要であるということも、昔から多くの猫が言っていることじゃ。この図を見てくれ。猫の欲求に関する事をグラフで説明しよう。食事による満足を例にとって説明すると、横軸が食事の量、縦軸が食事の満足度合いじゃ。チャビー、お前さんは食べるのが好きとのことじゃが、食べ過ぎるとどうなる?」

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「さすがのボクも食べすぎると気持ち悪くなります」

「そうじゃろうな。この図に沿って説明しよう。食事を始めると急激に満足度合いが高まって行き、ある時点で満足度合いはピークを迎える。ピークを超えても食事を続けると、満足度合いは下がっていき、ある時点で『もうこれ以上食べられません』という物理的な限界に達する。これが欲求の基本パターンじゃ」

ところがじゃ、エンドルフィンを始めとする快楽を司る神経伝達物質には中毒性がある。同じ刺激を続けていくと、前と同じ強さの刺激では満足できなくなってくる。どんどん強い刺激を与え続けていると耐性ができてしまい、やがては神経伝達物質が分泌されにくくなってしまうのじゃ。すると何が起こるか。感応度の曲線は右側にシフトしていき、感応度のピークが物理的限界の向こう側に行ってしまって、どんなに刺激を与えても感応度のピークには至れなくなってしまう。だから幸せを感じるには節制が必要なのじゃ。節制は感応度の曲線を左側にシフトさせる作用があるため、容易に感応度のピークに至ることができるんじゃ。断食明けは味覚が研ぎ澄まされていて、野菜をそのまま食べても甘味を感じると聞いたことがあるじゃろう。それも、節制が幸せと密接に関わっていることの表れじゃ。ここまでで何か質問はあるかのう?」

ワタシはショッピングモールで考えていたことを質問してみた。

「猫缶をたくさん持っていても、幸せになれるとは限らないのはなぜでしょうか?」

「ふむ、猫缶と幸せの相関については、いくつか実証研究があるな。多くの調査が一致しているところでは、貧しい猫は悲しさやストレスを抱えるが、猫缶が増えてくるに伴って幸福度も増していく。ただし猫缶が一定の水準を越えると、幸福度も頭打ちとなってくるのじゃ。こういった調査が示唆しているのは、猫缶を得ることによって幸福を感じるのではなく、持っているリソースをどう使うかによって、幸福を感じられるかどうかが決まるという事じゃ。最初に言ったように、幸せとは何かという命題は猫それぞれで違う。わしの同級生の伊藤にとっては、晩酌をしながら自分の仔猫が遊ぶところを見るというのが幸せじゃ。伊藤が幸せを感じるには、それが実現できるだけの時間と猫缶があればいい。それ以上のリソースを持ったところで無用の長物となり、かえって幸せを阻害してしまう原因にもなり得る。繰り返しになるが、幸せを感じるポイントの1つ目は、自分の好きなこと、自分自身が幸せを感じる場面をしっかり認識しており、そういう場面に自分を置くようにしていることで、2つ目のポイントは、それを身近に持っているということじゃよ。ネコ美、よいかな?」

ワタシは静かに頷いた。

「では今日の講義をまとめるぞ」
渋さんがホワイトボードに書き出した。

【幸福力】
1.幸せとは何か
・幸せは自分の中にある
・幸せを感じるのは能力である
・猫は脳内物質の分泌に合理的に行動している


2.幸せを感じるポイント
・成長を愛でる
・チャレンジをする心
・節制と密接に関連している

「さあ、これでニャンコ科学部の講義もおしまいじゃな。これまで9ヶ月に渡り、生きる力について説明してきた。ただな、生きる力というのは、聞いて理解しただけではなかなか身に付かん。頭で理解するのと、実行してみるのはまったくの別物じゃ。これは、筋肉のようなものだからな。1つ1つの力を何度も思い出して、繰り返し行動に移していくことで、自分の力が鍛えられていくんじゃ。安心せえ、自分が費やした時間と情熱は、決して自分を裏切らんからな。自分自身の能力、努力、運を信じて、自分が良いと思った道を進むのじゃ。もし、悩んだら、いつでもわしのところへ来るがよい。たぶん暇をしているから、話だったらいくらでも聞いてやるぞ」

「いずれ、お前さんがたも年を取るだろう。そうしたらな、お前さんがたの考える生きる力を、若い猫たちに教えてやってくれ。自分たちが経験したことをまとめ、若い世代を育成していく。それが繋がっていくことで、この世界がすべての猫にとってよりよいものとなっていくんじゃ。その一端を少しでも担うことができれば、わしも本望じゃのう」
渋さんは、遠くを見つめながらしんみりと言った。